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Paradise Galaxy

2015年6月に東京都府中市で幕を開け、最近ではLove Family ParkやSunwavesと比較されることも多くなったParadise Galaxyだが、
今現在定着している"アジア圏で唯一の本格的な音楽フェスティバル"の立ち位置にそのまま甘んじてしまうことは、私たちにとって、そして日本のクラブシーンにとって、必ずしも良い結果を産むとは限らないだろう。


もちろん1年という長い歳月の中で、光源としてのパラダイスはレイジーながらもティピカルなオーソリティーへとシフトしたのは疑いようのない事実であり、
ピークタイムにクラウドたちを包み込む銀河系の渦は、その証跡をミニマルフリークたちのニューロンへと強烈にインスクリブした。
そう。形骸化した言葉だけのアヴァンギャルドさを押し出すのも、それを継続できている状況下では決して悪い現象とは言えない。
むしろそのフェノメノンによって、ハウスミュージックは今日まで高いエバリュエーションを獲得してきたと解釈するのが自然である。


しかし安易なマスタープランのアクションは、残念ながらコンテンポラリーやモダニズムという言葉からは程遠いリポジショニングだ。
例えそのアクトが人々の目にアーティスティックに映ったとしても、それはいわばポピュリズムの押しつけであり、長い目で見れば退廃的で主張の無いアナーキズムへと繋がっていく。
やはり真にアドバンスな空間を演出するためには、常にカルチャーのバックグラウンドを踏まえた上で、世界を見据えるアティテュードをキープすることが重要である。
キープするのがグルーヴとベースラインだけというスカラシップな解釈では、恐らく近年の「パラギャラ旋風」とも言われる絶大なハウスムーブメントに説明をつけることは難しいだろう。


それでも複雑なサーカムスタンスの中、私たちが「クラブ文化が内包する繊細でリグレットな部分と、アンダーグラウンドカルチャーゆえの直球的なアドバンテージ」をリガードすることに変わりは無い。
この相反するコンポジションの両サイドを良く見極め、スタンダードなアプローチでソリューションを提供し続けることは、時に大きな困難をも伴うだろう。


パラダイスギャラクシーの本質を貫くために、
私たちのマインドはどこまでファンキーになれるだろうか?
どこまでフリーキーになれるだろうか?
そして、どこまでアホになれるだろうか?


その命題への答申に、かのノーベル平和賞受賞者の言葉を引用して締めようと思う。

"全ては、カミに試されている" (マザー・テレサ 1968年)